2008年07月22日

「横濱モボ・モガを探せ!again」

08.07.22.jpg
BankART1929がぴおシティのギャラリーで戦前の「モダンボーイ」「モダンガール」の写真展を開催していたのでちょいと覗いてみた。

「横濱モボ・モガを探せ!」は、「モダンボーイ」「モダンガール」を略して「モボ・モガ」と呼ばれる流行を捉えた最先端の若者たちの写真を収集、公開するプロジェクト。当時の写真を集めることで、地域の新しいネットワークを築くほか、写真を手がかりに先人たちの経験を学ぼうと企画された。

写真展は2006年にスタートし、今回が2回目。これまで約1,000点の写真が寄せられ、デジタルデータとして保存されている。今回はその中から約70点を展示している。

同プロジェクトでは現在、今秋開催予定の展覧会に向けて、函館、新潟、横浜、神戸、長崎の開港5都市に範囲を広げて建物、街並み、風俗をテーマにした写真を募集している。


戦前のモダンな彼、彼女等の姿はまさに清水宏の戦前のサイレント作品「港の日本娘」に出てくる井上雪子や江川宇礼雄そのままといった感じでイカしてる。近日、活弁付きで「港の日本娘」を再び観る機会があるが、映画がより真実感を持って鑑賞できそうで楽しみになってきた。

bankart1929

2008年07月13日

4人が創る「私の美術館」展

4人が創る「私の美術館」
横浜美術館のコレクションの中から茂木健一郎、はな、角田光代、荒木経惟がそれぞれの視点で選び抜いた作品の展覧会でこの日は偶然にもはなちゃんのトークショーもありちょっと儲けた気分で拝聴。はなちゃん自身も照れ臭そうに言っていたが、仏像の話に及ぶとついつい熱くなり学芸員も苦笑してしまう位の語りっぷり。育ったエリアも世代も殆んど私と同じなので、時折出てくる地元話はついつい「うんうん」と会話しているような気分になった。
善財童子


観覧中、松井冬子の画の前でジーッと30分は食い入るように見つめていた女性が(おそらく松井冬子ファン)印象的だったが、あの画の中の少女の繊細な表情と構図は中々素晴らしい。メディアに載る松井冬子と殆んど二、三の作品くらいしか認識していなかったけど、実際に作品を目の当りにしてみると女性らしい彼女独特の視点が際立っていてなるほどその女性ファンの気持ちが良く分かる。ああいった画を描く画家は現在、他に見当たらないもんね。

2008年01月09日

溝口健二

08.01.09.jpg
溝口健二の作品に助監督として関わっていた新藤兼人が溝口健二の人生を追っかけながら、その人物像と作品の本質に迫るべく制作された1975年公開のドキュメント映画作品「ある映画監督の生涯」を観た。

この映画の監督である新藤自身がインタビュアー&ナレーションも自ら努めているのが、溝口健二を崇拝している新藤監督だけに溝口健二の複雑な人間性の闇の部分に関して切り込み方が甘くなるというか客観性が弱く好意的に解釈してしまうのがやや鼻に付く。もっとも、このドキュメントは偉大なミゾグチ作品を作り上げた偉大な映画監督“溝口健二”を讃える為に制作されたようなものだから無理もないんだけど…それにしても、溝口との確執があった女優入江たか子に対するインタビューや溝口が惚れていたとされる田中絹代に対してのインタビューでも幾分か思い込み解釈と押し付けがましさが感じられてしまう。入江も田中もスッとかわしているのだが、単刀直入に訊かずもっとシャープに切り込んでいけばもっと強く違う表情が引き出せていたのでは?と観ていて幾分か消化不良になる。
それでも山田五十鈴や京マチコ、木暮実千代、進藤英太郎、浦辺粂子、等々溝口作品に欠かせない出演者や新藤と同じくのちに映画監督になった増村保造や大映社長だった永田雅一など溝口が映画監督になる前の日活時代を含め彼を良く知る大勢の関係者の証言など今では大変貴重な映像として記録されている事はとても価値が高く溝口作品のファンならぜひ観ておくべき資料ではないだろうか。

高校時代~映像学校時代も個人的には黒澤明に傾倒していたし、小津安二郎の映画にも親しんでいたのでそれなりな事は知っていたが、溝口健二については純粋に作品についての事以外はあまり知らなかったので、そういう意味ではたいへん興味深かったし勉強になった。
この作品鑑賞後、久しぶりに『雨月物語』『山椒大夫』と鑑賞したが観る度に涙が込み上がってきてしまう。真に日本的な美しさを持った素晴らしい映画だ。

2007年12月02日

『鳥獣戯画がやってきた!』展

07.12.01.jpg

六本木ミッドタウン内にあるサントリー美術館で開催中の「鳥獣戯画がやってきた! ― 国宝『鳥獣人物戯画絵巻』の全貌」を鑑賞。
この「鳥獣戯画がやってきた!」の展示は前期・後期と二部構成になっていて、前期の方は行きそびれいたのでなんとか後期は観ておきたかった。
感想はどうだったかなんて、ちょっとヤボな話だけど作者不明のこの鳥獣戯画がどのような意図をもって平安時代に書かれたのか?この時代から既に猿や蛙、兎を擬人化する表現技法や社会風刺が存在するという事が驚きでもあり日本美術の奥深さである事を感じさせてくれる。小難しい美術書や古書なんて読むくらいならこの絵を観た方がよっぽど色々な事が理解出来そうだと思う。それくらい無数の情報がこの戯画に織り込まれている。そして何よりも見ているだけで単純に楽しい。
鳥獣戯画以外でも室町時代の勝絵絵巻なんか、とてもここでは書く事出来ないような事柄を描いていて思わず笑ってしまう。愉快にも程があるというか、愛すべき馬鹿な日本人とでも言うか…(笑)
まぁ、何百年経とうと遊びの本質は変わらないんだな、という事が解って男の私にはものすごい感慨深いものがあった。

図録とエコバッグ図録モダンでラグジュアリーなミッドタウン
※画像をクリックすると大きい画像が表示されます。

2007年11月18日

『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』

07.11.25.jpg
今年はイザベル・ユペールの作品展があったり、ブレッソンのお台場や国立での写真展、メディアでの盛り上げなどで、いつになくブレッソン熱が高まっていた年だった思う。
ブレッソンは好きな写真家だけど尊敬しているのはキャパ。「ブレッソンを好き」なんて口にするのはナイーブな私には正直赤面モノのだが(好き嫌いで論じるレベルの写真家じゃないので)それでも他に表現する言葉が見つからないので陳腐この上ないが、やはり“好き”と言ってしまう。一昔前に“リドリー・スコット好き”と、のたまうのが流行ったのと同じだ。私も久しく言うのを躊躇っていたが、当のリドリーが落ちぶれてきたので(リドリー・スコットは今でも大活躍なのだが、映像作家としてのピークは越えたという意)天邪鬼な性格上、今は声を大に言っている。

ドキュメンタリー映画である『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』ではブレッソン本人、イザベル・ユペールやアーサー・ミラー等々、ブレッソンと親交のあった人物によるインタビューなどでブレッソンの足跡を辿っているが、ブレッソンの捉える決定的瞬間というものがどのように切り取られるのか大変興味深く語られている。ブレッソンが故人となった今となってはブレッソンという写真家を知る上で肉声はとても貴重なものだ。

キャパはあくまで被写体そのものに関心があったのに比べてブレッソンの関心はあくまでファインダーから見える範囲に限定されている。もっと言えばファインダーと被写体の調和が全てなのだ。この『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』でその事がちゃんと語られているのでこの作品を観ればブレッソンをちゃんと理解する事が出来るし、これまで以上に彼と彼の写真が好きになる事間違いなしだ。


来月からはいよいよ『マグナム・フォト 世界を変える写真家たち』が公開されるし。

2007年08月12日

ルドンの黒

07.08.11.jpg
Bunkamuraザ・ミュージアムで開催中の『ルドンの黒』を観てきた。
お盆休暇のせいかミュージアムは思っていたよりも混雑していなくて鑑賞しやすかった。

植物学者クラヴォーやアラン・ポーなどの出会いを通し、一貫して黒に彩られた異形の者を表現し続けたルドンの作品は想像力の重要性と表現力の深さについて訴えかけてくる不思議な作品が多い。一見すると「何これ?どういう事?」と不可解極まりない異形を描いた作品の数々なのだけど、そこには孤独や悲しさ、ユーモアが描かれていて、決して不快な感じではない。それにしても、このルドンの精神世界はどんな世界なのだろーか?ルドンの作品に真正面から対峙したのは今回が初めてなので、どう感じればよいのか戸惑いがあったと言うのが正直なところだったが少しずつ理解を深めて垣間見る事くらいは出来る様になりたいものだ。

2007年08月04日

『青い煌きウズベキスタン-シルクロードへの誘い-』

07.08.05.jpg

ユーラシア文化館で『青い煌きウズベキスタン-シルクロードへの誘い-』萩野矢慶記写真展を鑑賞。 外があまりに暑くてついつい入っただけなので、サラ~っと。
ウズベキスタンはアレクサンドロスの東征以後、数々の征服者を頂き異文化、異民族と融合しながら発展してきた歴史があるだけに建築にも工芸にも独特の繊細さと色使いが施されている。この写真展は青の都として知られているサマルカンドを主テーマとしているので当たり前なのだが、青に対する渇望というか執着がどういうところから来るものなのか興味深い。

2007年05月14日

「レクイエム黄金町」-彼女たちとそれからの私たち-展

八木澤高明写真展
数年前までは日本有数の売春街として有名だった黄金町。それはそれは無国籍タウンさながらだった事を私もよく憶えている。それ程多くの外国人娼婦がお客を取る為に路上に立っていたが、ここ2、3年前から警察の猛烈な取り締まりによって横浜開港時からの街の経緯と共に消し去られようとしている。そんな変わり行く黄金町にいた外国人娼婦たちの黄金町で過ごした日々と過去を写真に記録した写真家八木澤高明氏の写真展がシネマ・ジャック&ベティで催されている。
彼女たちはコロンビア、べネゼエラ、アルゼンチン、タイなど国元にいる両親に仕送りをする為に、借金を返す為、貧乏から抜け出す為など、本当にさまざまな理由で異国の地から遠路はるばる日本までやって来る。もちろん、彼女達の全てが最初から売春しに日本に来るワケではないし、良い事をしているなどと思ってしているワケでもない。その殆どが経済的理由からやも得ず娼婦となってお金を稼ぐ事を選ぶ。遊ぶ金欲しさに安易に援交する輩とは境遇も覚悟も根性も違う。
虚心に写真を眺めてみると、この写真は娼婦たちを通してその国の貧困とたくましさを語りかけてきて胸が苦しくなってくる。彼女達をいわば“買う”側に属している者としての罪悪感みたいなモノもこみ上がってくるし、一方で“しょうがない必要悪だ”(買う者がいるから売る者が出る、日本に来なければ国でもっと貧困に悩まされていたかもしれない)と思う気持ちもある。それでもやはりキッパリと割り切った答えを自分自身に出す事は出来ないし、この先もモヤモヤしたままだろう。

この写真に登場する彼女達は今はもう黄金町にはいない。強制送還されてしまった子や不幸にもHIVに感染し亡くなってしまった子もいる。それ以外の子たちもどこでどう生きているのか分からないらしいが、「幸せになってもらいたい」と写真を観ただけの私だけど、そう思わずにはいられなかった。
八木澤高明 著「黄金町マリア」
黄金町プロジェクト

07.05.14a.jpg07.05.14b.jpg

2007年05月06日

モダン日本の里帰り。「大正シック」

07.05.06b.jpg
東京都庭園美術館で開催中の「大正シック」展
ホノルル美術館所蔵の大正から昭和初期にかけての絵画・版画のコレクション(一部きもの、オブジェ含む)を公開している。
幾何学模様やハート柄いっぱいのキモノなど大胆な色使いと試みが多く、西洋モダニズムの影響を強く受けている絵画を観ても影響を受けつつ独自のアレンジに長けた日本人だけあって不思議だけど懐かしい。私自身の年齢より年代の古いモノだから懐かしいと感じるのは当たり前かもしれないが、日本画と西洋画とのバランスが絶妙なのだ。ジャープだけど、品のある線、派手だけど決してくどくならない豊かな色彩、そして日本人女性の持つ美しくきめ細かい肌とその被写体。そんな絵画群の中でも今回の展覧会の目玉だと思われる中村大三郎画の「婦女」はそれら全部を絶妙のバランスで兼ね備えた美しい作品でこれを鑑賞するだけでも今展覧会に行く価値はあった。

2007年04月28日

「1 + 14 横浜写真アパートメント」

横浜写真アパートメント
北仲WHITE(旧帝蚕ビルディング)で写真家のテラウチマサトと14名の若手写真家がそれぞれの“横浜”を表現したテラウチマサト フォトエキシビジョン「1 + 14 横浜写真アパートメント」を催し中だ。
この北仲WHITEは2005年からアーティスト、建築家、デザイナー、ジャーナリスト等文化芸術活動に関連するグループ約50組が去年の10月まで入居しアーティスト活動を展開していた場所なのだが、この昭和2年に建てられた北仲WHITE(旧帝蚕ビルディング)は再開発計画の為に取り壊されるらしい…残念だ。
その建物の一部フロアを借り受けての今回のコラボ写真展は、私も含め、多くの写真好きの老若男女がデジタルから銀塩までカメラ片手に集まり、作品を鑑賞しながら各々が思いつくままカメラのシャッターを切ったり、テラウチマサト×中藤毅彦×大和田良×丸山裕一×坂本和則×塚崎智晴トークショーに参加したりと、とてもゲリラ的な匂いの漂う写真展だった。

それにしても昨年開催された世界現代アートの祭典「横浜トリエンナーレ2006」といい馬車道に東京芸大大学院映像研究科校舎が出来たりとか、北仲地区をアートの新本拠地として、さまざまなクリエイターが集まって来る事はとても刺激的だし嬉しい。国際色豊かで日本の写真発祥の地“ヨコハマ”という街に相応しい活動だと思うのでこれからもどんどん精力的に盛り上げていってほしいな。
歩く北仲WHITE北仲WHITE 2無題

2007年03月17日

ブラジル現代アートを牽引する女性作家

07.03.18a.jpg07.03.18.jpg
ブラジル現代美術界を牽引する女性作家アドリアナ・ヴァレジョンの個展。近年作であるタイル貼りの浴室をイメージした“浴室シリーズ”は遠めから眺めていると写真かと思ってしまう程、静寂かつリアルであり、今まさに自分がそこに居るかの様な錯覚を覚えてしまう。これは“子宮”をイメージしているのか?と思いながら眺めていたが、彼女曰く「この作品を描いている時は妊娠中」だったらしい。揺れている水面に映る歪んでいるタイルと浴室一面の整然としたタイルとの対比表現が素晴らしい。
アドリアナ・ヴァレジョンという人の作品は性と暴力についてグロテスクな美しさでもって強烈に描かれていて、(特に初期の作品では)ブラジルの先住民とヨーロッパ人による植民地化、女奴隷の歴史、食人風習や宗教彫刻といったものを織り交ぜブラジルという国の歩んできた歴史を題材に現在も植民地時代の旧弊が有効とされている保守的なブラジル社会を独自の表現方法で見せていて、私は結構好きだ。

今回、日本で初個展という事もあってか展示数が少なめだったのが残念だったけど、今後、もっともっと彼女の作品を多く鑑賞出来ればいいな。

2007年03月11日

『マグナムが撮った東京』

07.03.11a.jpgマグナムを意識してみたりして…モントリオールのジャズメン
恵比寿の東京都写真美術館で開催中の『マグナムが撮った東京』展へ。
写真家集団マグナム・フォト。ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=プレッソンらを中心に設立された“マグナム”の写真家たちが1950年~2005年までに撮り貯めていた東京写真を「東京」をテーマに一挙に展開する写真展。
シャープな眼差しで時代を切り取るマグナム集団の“東京”は、それぞれの目線で語りかけていて、マグナムにありながらも各自の写真家としての個性的な東京が見事にそこに写し出されていてもう色々考えるなんてこともなく、ただただ感動するだけ。キャパの作品は言わずものがなだけど、中でも個人的に心奪われたのはバート・グリンの作品。日常の中のストーリー性といったものをしっかりと切り取りながら優しく語りかけてくる感じは今回の作品群の中でも印象的で撮影する上でいかに物語性が大事かという事を再認識させてくれる。
写真を観る事、撮る事の好きな方は是非観ておくべきだろう。良い刺激を受ける事間違えなし。

そういえば昔、青山でストックフォト関係の会社で仕事をちょこっとしていた時に、マグナムフォトを扱える事になって盛り上がった事を思い出したなぁ。

2007年03月04日

神奈川県立近代美術館 鎌倉

07.03.04.jpg
「今日の作家」シリーズ“畠山直哉”を観に鎌倉へ。
今回の個展のテーマとしてある 「Draftsman’s Pencil」(製図家の鉛筆)「都市の自然」は私自身、大変に興味関心の深いテーマでもあり、そういった表現の達人である畠山氏の写真家の視点や技法といったものをまじかで堪能できる願ってもない個展だ。そのうえ、畠山氏のアーティスト・トークも参加する事が出来てとてもラッキーだった。アーティストトークは関係者、畠山氏共に予想以上の参加人数だったようだ。その上、氏の話がノッてきたところで終了予定時間を迎えてしまい、一旦仕切りなおして引き続きトークを再開という結構珍しい展開になった。モチーフ選びや、イマジネーション、ひいては写真表現や絵画表現をどう解釈してみせるか?といった深い部分の話もうかがい知る事も出来て、私自身、硬直しつつあった観念に風穴を開けてもらう事が出来、目から鱗の充実した個展だった。

2007年02月25日

ブルーノ・タウト展 -アルプス建築から桂離宮へ-

07.02.25a.jpg07.02.25b.jpg
「ブルーノ・タウト展 -アルプス建築から桂離宮へ-」を開催している神宮前のワタリウム美術館へ。
ブルーノ・タウトはドイツの建築家で“桂離宮”を再発見した事したことで知られている人物。ベルリンでタウトが設計した集合住宅は近年修復され70年振りに鮮やかな色彩が忠実に復元され、この中産階級の為の集合住宅は、現在ユネスコの世界遺産に登録予定なのだそうだ。
彼が掲げていた“ユートピア思想”を日本の伝統・美意識やクリエイター・職人との出会いを通してどのように発展させていったのか?というテーマで彼の作品170点を新解釈を元に構成展示していたのが、とても興味深くて彼のパーソナリティがユニークにも浮き彫りとなる民藝の柳宗悦などに宛てた手紙の数々や、タウトが設計した「熱海、日向邸」の一部復元による家具、工芸品の展示にいたるまで、彼のオリエンタリズム追求の足跡がリアルに感じ取る事が僅かながら出来た。
07.02.25c.jpg07.02.25d.jpg

2007年02月10日

ステンドグラス

フラッと散歩中にパチリ。

色鮮やかな宇野沢組ステンドグラス製作所作のステンドグラス。関東大震災で焼失したのを昭和2年に復旧したとの事。
07.02.11a.jpg07.02.11b.jpg07.02.11c.jpg

2007年01月08日

東急東横「世界遺産写真展」

昨日は渋谷で新年会。なので、ちょっと早めに東急東横店で催されている「世界遺産写真展」を鑑賞。
展示内容は「自然」「文化」「日本」の3つのカテゴリー別で構成されているのだが思っていたより混雑していてちょっとビックリだったが、場内では案外じっくり鑑賞出来たのであまりストレスは感じずに済んだ。写真は一流のフォトグラファーによる超一流の風景写真の数々で壮観。個人的には「モン・サン・ミシェル(修道院)」と「シナイ山」に想いを巡らせて時間を忘れ見入ってしまった。それにしても、大自然の迫力と人類文化の迫力を同時に鑑賞出来るという写真展はありそうでないので、こういう機会は結構貴重。

RAPHAEL SEBBAG
この画像は「世界遺産写真展」を後にし、ふと立ち寄ったHMVでUnited Future Organizationのラファエル・セバーグ選曲によるコンピレーションCDを試聴した時に撮ったPOPの写真で、ラファエルが自らのPOPにサインを落書きした跡。(昨年末にHMVでプロモーションをしたらしく、おそらくその時にサインしたと思われる)

2006年11月27日

茶気という言葉

岡倉天心生誕の地
最近久しぶりに耳にした言葉がある。「茶気」という言葉だ。普段あまり使われないこの言葉を一体どこで私は知ったのか…意味と使い方は知っているのだがどこでこの言葉を聞き及んだか思い出せない。そういうのは誰にでもあると事と思う。ああ、歳取るたびに瞬発力が失われる…30代前半でこの有様とは我ながら情けないが、そんな気持ち悪い日々が数日続いた。

少し逸れるが、「茶気」という言葉は「誰々~は茶気がない」とか「茶気がある」と言う風に使う。お茶目とか、茶目っ気とかそういう意味だ。ちなみに私に対して使うならば「茶気がありすぎる」というのが正解だろう。これは決して褒め言葉ではない。

話を戻して、さてこの言葉をどこで知るに至ったのか?実はあっさり解決してしまった。
今年は岡倉天心の「茶の本」出版100周年記念の年で久しぶりに手にした「茶の本」の冒頭に出てきた。「あ~~これだ!」これで一件落着。
この「茶気」という言葉が出てくる「茶の本」とは、簡単に説明すると東洋(日本)の茶の文化を西洋に紹介した本で、欧州でも当時ベストセラーになった本。ともすると難解な本と思われるが、とても明快で読みやすい本だと思う。

著者の岡倉天心は私より110年早く横浜に生まれた偉大な美術家であり思想家で、日本美術を西洋にいち早く紹介した人物でもある。当時のあまりに性急な欧米化に対して警鐘を鳴らし、真の日本(東洋)文化、芸術、思想を追求し続けた天心の哲学は100年以上たった今日でも充分リアリティを持っている。彼の見ていた地平には東洋西洋の垣根を越えた文化の創生というものが映っていたのではないだろうか。そういうダイナミズムを持つには今日は難しい時代だと思うが、こういうカオス時代だからこそ必要な覇気ではないか。

2006年11月24日

ベルギー王立美術館展とダリ回顧展

地獄の門
ベルギー王立美術館の“顔”ともいうべき「イカロスの墜落」がやってくると言うので、その「イカロスの墜落」とマグリットの「光の帝国」が鑑賞出来ればいいかなと思っていたが、色々観て見るととても興味深い作品が多い。決して派手な作品や作家勢揃いというワケではないがその時代時代に見る社会風俗などがとても上手く、そしてユニークに描かれているものが多く常にヨーロッパにあってイギリスやフランス、ドイツなどの大国に挟まれて生きてきたベルギーのベルジャン気質とでもいうべきクールな感性が感じ取れるようだ。
ベルギー王立美術館展猿の宴光の帝国
ベルギー王立美術館展

ダリ回顧展ポルト・リガトの風景お疲れちゃん
そして各所で不満を耳にするダリの回顧展。スルーのつもりだったが、やはりダリ好きがだまって素通りする事など出来ない、と思い直し結局覗いた。
混雑はリサーチ済みだったので、以前と重複している作品や「アンダルシアの犬」などはサッサとスルーし流し観してしまった。「何故、覗いちゃったんだろう?状態」。それにしてもあれは鑑賞なんて出来るような環境ではない。もう、カラスの行水だ。ダリを初めて真近で観ようなんて人には気の毒だし、ダリ好きにとってはストレスが溜まるばかりで、“回顧展”といえば聞こえがいいが…。もう少し観覧に対する配慮というものを考えてもらいたかった。新宿三越の美術館でやったダリ展の方が良かった。

2006年11月19日

総合芸術

06.11.19.jpg
他の人は1つの映画作品を気に入ったら何回くらい繰り返し観るのだろう…
私の場合、ひとたび気に入ればDVDを買うなり(昔ならビデオかLD)を購入するなりして何度も何度も繰り返しみる。昔、映像を勉強してた時、気に入ったシーンがあればカメラワーク、照明から編集、俳優の芝居、等々を分析しながら観て勉強していたので、未だにその癖が抜けない。という事も影響しているとは思うが、おそらくそれは大した影響ではないだろう。ただ単純に繰り返し観るのが好きなだけなのだ。お気に入りの音楽を繰り返し聴かない人なんていないだろう。
立派な作品(完成度が高い)も好きだが、どーしようもなく救いようのない出来の映画でも1カットでも良いところがあれば結構好きになる事もあるし、お気に入りの俳優が存分に活躍していれば、ストーリーがヘボでも評価が甘くなる事も良くある。
あえて一例を出すとすれば、S・キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・ショット」など結構好きだ。
キューブリック自身が認めている様に、彼の作品の中で言えば思いっきり駄作だ。トム・クルーズ夫妻に振り回されたとも思える脚本、陳腐な結末。浅い描写とテーマ。どれを取っても歴代キューブリック作品から比較すれば合格点以下だ。(「フルメタル・ジャケット」もキツイかな…)でも、あの彼特有の柔らかい照明とビジュアル、常に張り詰める緊張感と距離感。これは失われていない。それだけでも担保されていれば単純な私などもう「OK!」と言ってしまう。
映画は総合芸術。文学、音楽、映像、芝居、美術、建築。ありとあらゆる要素が必要で、またどれが欠けても成り立たない。それに関わる人の数と時間も相当なものだ。違う言い方をすると「映画は妥協の産物」でもあるワケで、人生と同じだ。人生は常に“妥協”と“選択”の繰り返しだ。人生において迷わないし、選択を誤らない人などいない。(いたら紹介してくれ)映画はあらゆる人生の縮図を映像化しているに過ぎないのだから人生同様、完璧な映画なるモノはありえない。だからこそ映画は面白いし、あれこれ文句を言いたくなるのだろう。

2006年11月12日

スーパーエッシャー展

スーパーエッシャー展渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで開催が始まった「スーパーエッシャー展 ある特異な版画家の奇跡」を観た。
どーしても初日に観たかったので一応、腹を括って行ったのだが雨のおかげか思ってたより余裕があった。(まぁ、それでも混雑してたけど)
私にとってエッシャーはダ・ヴィンチ、ダリ、マグリットと並んで好きなアーティストで、かなり前にハウステンボス美術館所蔵のエッシャー展を観ているが、今回はそれをはるかに上回る展示数でまさに“スーパーな”エッシャー展だから行かないでいるワケにいかなかった。

「だまし絵」であまりに有名な人なので、私がここで感想など野暮というものだろう。それでもまだエッシャーにあまり触れた事のない人にも是非、観てもらいたいと思う。

「イタリアの風景に魅せられ風景の版画を主に制作していた彼がイタリアのファシズム台頭でイタリアを離れ故郷オランダに戻っても、イタリアの景色のような景色を故郷に見出すことが出来なかった為、テーマは心象風景に向かわざる得なかった」というのはエッシャー自身の言葉。そこから彼の“平面の正則分割”“シンメトリー”“だまし絵”を追求していくことになったドローイングや版画、オブジェ制作とその過程が興味深い。彼自身、「自分が芸術家であるという事より数学者に近いと意識していた」らしい。
展覧会自体も上手く構成され、分かりやすく3Dグラフィック再現していたり飽きない工夫もされていた思う。主催側の展示アプローチもなかなか良い。
でんぐりでんぐりドラゴン
右画像のフィギュアはエッシャーの「ドラゴン」という作品のフィギュアで、昔懐かしいガチャガチャがプログラム・グッズ販売コーナーの一角にあり、エッシャー作品のフィギュアを手に入れたい沢山の人が“ガチャガチャ”してたので、私もガチャガチャして手に入れた物。一番人気の“でんぐりでんぐり”が欲しかったがドラゴンもなかなか。


この間のヴェートーベン交響曲の狂い聴きに引き続き、今日の狂い聴きは「ドヴォルザーク 交響曲第6番ニ長調第3楽章」

2006年11月09日

芸術は自由を強要する

20c.jpg
宮下誠 著「20世紀絵画 -モダニズム美術史を問い直す-」
なかなか読み進められずにいる。
読書は私にとっては精神的余裕がないと出来ない行為の一つだ。本屋に行っては何かしら買ってくるのだが、そうやって積み残された宿題の様に未読の本がただただ増えていく。
ある友人は本代を節約すべく図書館を活用しているそうだ。私もそうすべきか?
それはそうと、“精神的余裕がない”という自分の状態を物語ってるのか、狂ったようにヴェートーベンの交響曲第7番第4楽章を聴いている。本当に最近の事だが、ようやくヴェートーベンの良さが分かってきている。それにしてもこれでコニャックを注いだグラス片手にしながらだと完全に自己陶酔中の画だが、残念ながらそんなに優雅な姿ではない。

「芸術は自由を強要する」という言葉がある。芸術は自由であるべきものだが、何物からをも影響を受けてない人などいない。完全無欠な自由を手にしている人など存在しない。しかし、芸術は自由でなければならないので、人は自由を実感する為に不自由さを定義する。という意味の言葉なのだが、これは芸術だけでなく全ての事に当てハマる事だ。座右の銘などとは言わないが、なんとなく気に留めている言葉だ。


ところで、エントリーの投稿日時を指定日で予約しておけるというのは便利だ。予め書き溜めておいて公開日時の指定さえしておけば自動的に公開してくれるんだから。私の様に書く時、書かない時の波が激しい人にはもってこいだ。

2006年11月05日

コラージュとフォトモンタージュ展

06.11.05.jpg
東京都写真美術館「コラージュとフォトモンタージュ展」を観た。
100年以上前の写真など、もちろん今日の撮影機材も撮影技術も違うワケだが、そこにはちゃんとアイデアとテクニックが盛り込まれていて合成をする事でむしろより自然さが強調され、肉眼で眺める景色よりも、より“ホンモノ”の世界が切り取られている。写真をただ写し画としてだけでなく絵画、版画といった表現方法を組み入れながら今日のフォト・モンタージュ、コラージュを形成していく過程がとても分かりやすく鑑賞出来た。


最近、ちょっと硬派な映画作品の鑑賞が続いたので、少し柔らかいヨーロッパ映画が観たいと思い、C・ルルーシュの「男と女」を借りようと思ってビデオ屋に寄ると、運悪く貸し出し中…昨日の様な話を聞かされた後でなお、観たかったのに…残念。しょうがないので、「二十四時間の情事」と、好きなベルナデット・ラフォン見たさに「私のように美しい娘 」をレンタル。
どちらも改めて観なくても感想書けるが、久しぶりなのでちゃんと観た後にレビューを書くつもり。